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2012/02/16 (Thu)

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~ジャージー島とフランスの関係~

前回までに見たように、ジャージー島は古くから、ブルターニュそしてブリテン島南部地域とのつながりが強かった。そしてこの緊密なつながりは、恐らく、これらの地域がいずれも、太古の昔から存在する、イベリア文化圏に属していたことに由来する。後に、これらの地域はケルト系の言語・文化の影響下に置かれるようになり、いずれの地域にもケルト系の言語・文化が根付いた。しかし、恐らく人種としては依然としてイベリア系が主流であり続け、これらの地域の緊密な関係も維持された
 
ところが、10世紀前半以降、ジャージー島は、この言語・文化圏から離脱し、フランスの言語・文化圏に吸収されることとなる。ジャージー島では一昔前まで、公式な文書はフランス語で書かれていたし、現在でも、英語と並行してジャージー・フレンチと呼ばれるフランス語の一種が使われている。これは、かつてこの島がフランスと緊密な関係にあったことの証である。というわけで、今回は、ジャージー島が上記の「イベリア・ケルト文化圏」から離脱しフランス文化圏に取り込まれた経緯がテーマ。
 
ジャージー島がフランス文化圏に組み込まれたのには、北欧のヴァイキングの侵入が大きく関与している。8世紀末から11世紀頃まではヴァイキング時代(Viking Age)と呼ばれ、ヴァイキングが活発に活動した時代であった。この時代にヴァイキングはブリテン島、アイルランド島、フランス、南イタリア、ロシアの一部、アイスランド、グリーンランド、そして北米大陸にまで侵入して行った(ブリテン島やアイルランド島への侵入とその影響に関しては、拙著『多民族の国イギリス』、47-51、62-64、69、173-75ページ、『英語のルーツ』、15-18ページなどを参照。また、僕のホームページ内の Gallery の中の Shetland Islands のページにも少しだけ関連したことが書いてあります)。
 
9世紀頃から、ヴァイキングはフランスにも侵入するようになった。彼らの勢いは強く、一時はセーヌ川を上り、パリにまで攻め入る程であった。そこで、当時のフランスのシャルル単純王は、911年にヴァイキング軍の首領ロロ(Rollo)との間に条約を結び、侵攻をやめるのと引き換えに、フランス国内に土地を与え貴族とした(ちなみに、イングランドでも、ヴァイキングの侵攻に対処するため、9世紀末のアルフレッド大王の時代に同様のことが行われた。詳しくは上記の拙著を参照)。
 
この時ロロに与えられた土地は、大まかに言えば、現在のノルマンディ(Normandy)の東半分であった。その後、以下に見るように、彼らは西方に領土を拡大し、ノルマンディ半島(コタンタン半島)を手に入れ、これにより現在のノルマンディの基礎が築かれた。ここに住み着いた彼らはノルマン人 (英語:Norman;フランス語:Normand) と呼ばれるが、その原義は「北方人」(north + man) で、これは彼らが北欧からやって来たことにちなむもの。ノルマンディがノルマンディと呼ばれるのも、彼らがここに住み着いたからである。ノルマンディの語源は、Normand「北方人(つまりヴァイキング)」 + -ie「~の土地」であり、「北方人(ヴァイキング)の土地」というのが原義。
 
ヴァイキングが西方に領土を拡大しノルマンディ半島を手中に収め、現在のノルマンディの基礎が出来たのは、ロロの息子ギョーム1世がノルマンディ公であった時代の933年のことである。この時、ノルマンディ半島のすぐ近くにあるチャネル・アイランズにも彼らの手が伸び、彼らの支配下に置かれるようになった。こうしてジャージー島は、政治的にノルマンディと緊密な関係となり、従来のブルターニュやブリテン島南部とのつながりは相対的に希薄になって行った。
 
さて、初代ノルマンディ公ロロの息子で、第二代ノルマンディ公ギョーム1世には「長剣公」(Longsword)というあだ名がついている。ノルマン人は伝統的に短剣を用いたが、ギョームはフランス風の長剣を好んだことにちなんだものらしい。このあだ名に象徴されているように、彼は北欧のヴァイキングの血筋ではあるものの、フランス化の傾向が著しかったそうである。
 
ギョームだけでなく、ノルマンディやチャネル・アイランズに住み着いたヴァイキング達には、遅かれ早かれ同じようなことが起こった。つまり、彼らは徐々にフランス化して行き、最終的には言語も文化もフランスのものを受け入れるに到ったのである。つまり、彼らは、人種的にはゲルマン系であるものの、言語・文化的には「フランス人」になっていったということである。
 
このようにして、ジャージー島(をはじめとするチャネル・アイランズ)の支配階級は「フランス人」となり、その影響で、この島全体がフランスの言語・文化圏に組み込まれることとなったのである。ジャージー島では、フランス語の一種が現在まで使われているということは既に書いたが、この他、フランス語風の地名が多くあることなどにも、過去のこのような経緯がよく刻まれている。
 
大分長くなったので、今回はこのぐらいにし、残りはまた次回に。
 
写真はノルウェーのオスロにあるヴァイキング船博物館にあるヴァイキング船。このような船でヴァイキングは各地に進出して行った。
 
 
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