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イギリスの歴史や文化と関連することをいろいろと書いていきます。
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2019/11/13 (Wed)
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2013/02/12 (Tue)
先月の中頃以降、アイルランドやイギリスの大手スーパーマーケットでも売られている冷凍食品や大手ハンバーガーチェーン店でも用いられているバーガー等から馬肉が検出され、これがhorsemeat scandalとしてニュースなどで大きく取り上げられている。日本で昔あった食肉偽装と同じようなことがヨーロッパでも行われていたようである。馬肉が検出された食品では、肉の60~100%が馬肉であったということで、何らかのミスにより「混入」したというよりは、恐らくある段階で意図的に入れられたということなのだろう。

入っていた馬肉そのものは、健康に悪影響を与えるようなものではなかったようだが、いずれにしろ、表示と異なるものが入っていたということで、大きな問題となっている。食の安全や信頼性はそれ自体非常に重要なことだが、この問題がこれだけ大きく連日報道されている背後には、馬肉を食べることを一種のタブーとするイギリスの食文化も関係しているのかもしれない(もっとも、僕がいろいろ見てみた英米のニュースではこの種のことに関しては一切触れられていなかったが)。この問題が広く一般にhorsemeat scandalと呼ばれるようになったのも、horsemeatという語が馬肉を食べることを忌み嫌うイギリス人には非常にインパクトの強い言葉だからではないだろうか。例えば、馬肉ではなく豚肉が混入した場合に、その問題をpork scandal と言うかといえば、恐らくそうはならないであろう。

というわけで、今回の話題は、このニュースと関連して、イギリスではいつ頃から、またどうして馬肉を食べることがタブーとされるようになったのかについて。

5世紀中頃以降ブリテン島に侵入し、イングランドの基礎を築いたアングロ・サクソン人は、もともとユトランド半島やドイツ北部沿岸地域などに住んでいたゲルマン民族の一派であるが、ゲルマン人は馬を神聖な動物とし、これを生贄として神に捧げたり、あるいは生贄にした馬の肉をその後で食べたりしたという記録が残っている。以下にも見るように、アングロ・サクソン人も時に馬を食べることがあったようである。

このように、(異教時代の)ゲルマン人の間では、馬肉が食べられていたようだが、一方、キリスト教時代になると、教皇等教会の権力者がゲルマン系の人々に馬肉を食べてはならないと指導したことを示す文書が複数残っている。例えば、732年に教皇グレゴリウス3世が、現在のドイツ北部に当たる地域でゲルマン系の異教徒を改宗させるべく布教活動をしていたアングロ・サクソン人宣教師ボニファティウスに宛てた手紙の中には、次のような一節がある。

「それから特に、野生の馬を食べる者もおり、飼い慣らされた馬を食べる者も多くいるということであるが、この習慣は今後決して許してはならない。キリストの力に支えられ、これを何としてでも止めさせるように。また、これに違反した者に対しては適切な罪の償いを行わせるように。これは穢れた忌わしき行いである。」

同様に、751年に教皇ザカリアスがボニファティウスに宛てた書簡には以下のように述べられている。

「まず、鳥に関しては、コクマルガラス、カラス、コウノトリはキリスト教徒が食べるには不適切であり断固として避けられるべきである。さらに、ビーバー、野うさぎ、野生の馬はこれにも増して避けられるべきである。」

イングランドにおいても、786年に行われた公会議に出席した教皇の特使が、教皇ハドリアヌスに宛てた報告の中に次のような一節がある。

「多くの者達が馬肉を食すが、これは東方においては如何なるキリスト教徒もしないことである。この習慣をやめるよう。全ての行いを正しく、主に従って行うよう努力せよ。」

このように、8世紀ごろ以降、キリスト教に改宗しつつある人々、あるいは改宗してまだそれほど時間のたたない人々に対し、教会側がキリスト教徒は馬肉を食べてはならないと指導していたようである。馬肉を食べる習慣は、しばしば異教の生贄の儀式などと関連付けられたようで、異教的で忌み嫌うべきものとされたのである。

このような指導が浸透し、アングロ・サクソン人の間でも、食糧難など特殊な状況でない限りは馬肉を食べることをしなくなったようである。例えば、『アングロ・サクソン年代記』の893年の欄には、次のようなことが書かれている。

「皆が集まると、彼ら(アングロ・サクソン軍)はセヴァーン川の畔のブッティントンにおいてデーン人(ヴァイキング)の軍隊を襲撃し、彼らを砦の中に閉じ込め包囲した。何週間も川の両側に陣取り、王は海軍に対し西側のデヴォンに陣取り、包囲されたデーン人達は兵糧攻めで苦しみ、馬を殆ど食べてしまい、あるいは餓死して死んでしまった。」

ここでは、兵糧攻めにより食糧が尽きたヴァイキング軍が、ついに馬をも食べるに至ったが、それでもなお餓死者が出たということが述べられている。このような止むに止まれぬ状況になって、最後の最後に残されたものとして馬を食べたというような描写の仕方には、この時代のアングロ・サクソン人(あるいはイングランドに侵入してきたデーン人達)の間では、既に馬肉を食べる習慣が相当程廃れていたということがほのめかされているように思われる。

さらに、12世紀後半に書かれた『イーリーの書』の中には、「飢饉が深刻になり、人々は馬、犬、猫、人をも食べた」という一節がある。馬肉が犬や猫の肉、そして人肉と同列に扱われ、犬猫や人を食べるのと馬を食べるのが同じぐらい異常なこととして扱われている。

以上のように、書き残された記録を見る限り、イングランドでは遅くとも8世紀ごろには馬肉を食べることが禁止されるようになり、飢饉など特殊な場合を除きこれを食べることはなくなり、その結果として、12世紀後半までには犬猫や人の肉を食べるのと同様、馬の肉を食べるのも一種のタブーと感じられるようになっていたと言えそうである。それから現在までさらに800年以上の時間が経っており、その間ずっと馬肉を食べてこなかったことで、人々の馬を食べることに対する嫌悪感は恐らくより一層増しているものと思われる。

そういう文化的背景を持った人々にとっては、加工食品に馬肉が入っていたというのは非常にショッキングなことであり、また、horsemeat scandalという呼び名がセンセーショナルに響くのである。

以下は、horsemeat scandalを報じたCNNのニュース。この動画の終わり近くで、街角でインタビューを受けた女性が、馬は本当に大切にされるべき動物だと言っているが、イギリス人に馬を食べてはいけない理由を尋ねると、(何か答えてくれるとすれば)大抵、馬は高貴で尊厳ある動物で、人間の友達でもあるので大切にしないといけないというような答えが返ってくる。

http://www.youtube.com/watch?v=oMcyWCwah_k






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2013/02/06 (Wed)
dcad7dbb.jpeg二日前(2013年2月4日)に、昨年8 月に発見された人骨がDNA鑑定の結果イングランド王リチャード3世 (1452-1485年)のものであることが分かったという発表があった。リチャード3世は、ヨーク家とランカスター家とが争ったばら戦争(1455-1485年)の中、1485年のボズワースの戦いで敵対するヘンリー・チューダー(後のヘンリー7世)に敗れて戦死した王で、1154年から続いたプランタジネット朝最後の王である。

シェイクスピアの劇『リチャード3世』では、ボズワースの戦いで馬を失い窮地に陥ったリチャード3世が ‘A horse, a horse, my kingdom for a horse.’ といって馬を求める台詞が有名である。また、同じ劇にも描かれているように、彼は生まれつき背中が大きく曲がっていたという。

ボズワースの戦いの後、リチャード3世の遺体は、戦場近くのレスターの町に運ばれ、フランシスコ会の修道院に付属の教会墓地に埋葬されたとされていた。しかし、その後この修道院や教会はヘンリー8世の時代の修道院解体により解体され、その際にリチャード3世の骨は川に投げ捨てられたとも言われていた。修道院解体後、この敷地には別の建物が立ったり道路や駐車場が作られたりして、教会(の跡)自体が長い間土の下に埋もれていたのであるが、昨年の発掘により教会の位置が特定され、そこから見つかった骨が今回リチャード3世のものと分かったのである。というわけで、川に投げ捨てられたというのは伝説にすぎず、修道院解体後も同じ場所に埋葬され続けていたということになる。

発見された骨の頭蓋骨には8か所も損傷が見つかっており、そのうち2つは特に大きな損傷で、専門家によると、これが致命傷となり、この傷を受けて間もなく意識を失い死んだものと考えられるとのことである。また、背骨が大きく曲がっているという点でも伝承と一致する(上の写真からも分かるように、確かに背骨が大きく曲がっている)。これら骨の特徴に加え、彼の骨から採取したDNAと、16代後の子孫から採取したDNAとの鑑定により、この骨がリチャード3世のものと断定された。

戦死というイングランド王にしては珍しい最期を遂げたことに加え、特に、その死により敵対する側に王朝が交代したこともあり、彼はイングランド王に相応しい方法では埋葬されなかったのであろう。それに加え、暗殺などを繰り返し人望のない王だったということももう一つの要因かもしれないが。。。

王家に属する人々の多くは(1760年以前までは)死後ウェストミンスター寺院に埋葬されるという伝統があり、リチャード3世を倒したヘンリー7世の時代には当時のウェストミンスター寺院にあった王家の墓が既に満員になっていため、新しい建物が増設されたほどであった。ここに埋葬されていない王(例えば、エドワード4世、ヘンリー8世、チャールズ1世など)も、別の場所にしかるべく埋葬されているのが通常であり、リチャード3世のように行方不明になってしまったというようなケースは珍しいが、これも上述のように、戦死、王朝の交代、修道院解体など、特殊な事情が重なったためであると言える。

今回ようやく文字通り日の目を見ることになったリチャード3世の遺骨であるが、今後はどこに埋葬されるのかも少し気になるところである。さすがに博物館に展示されるなどということにはならないだろう。。。

以下は、この出来事を伝えたアメリカのニュース。世紀の発見を伝える会見や発掘現場の様子なども含まれている。

http://www.youtube.com/watch?v=ijDuNriQZuc
 
2013/01/23 (Wed)
イギリス留学中、たまたまテレビを見ていて見つけたBBCのドキュメンタリーシリーズにWhat the Romans Did for Usというのがあった。イギリス各地に残るローマ支配時代の痕跡を辿りながら、古代ローマ文化について、またそのイギリス文化への影響について紹介する番組で、二十数分の番組が6回で完結するというものだった。偶然最初の回を見て、どことなくコミカルな雰囲気の番組進行役Adam Hart-Davisやローマで使われていた道具等を実際に作って再現するコーナーなどが面白く気に入ったので、留学中テレビはあまり見なかったものの、この番組は毎回欠かさず見たものだった。

後にこの番組に基づく同じタイトルの本も出たので、それも買って持っているが、その後、この番組のことは大分長いことすっかり忘れていた。しかし最近、たまたまYouTubeでこの番組の動画を見つけたので、懐かしく思いながらもう一度見てみた。というわけで、ここでこの番組のことを少し紹介してみようと思う(なお、このシリーズの姉妹シリーズとして、チューダー朝、スチュアート朝、ヴィクトリア朝を扱ったものもある)。

56c2df82.jpeg








シリーズの初回は、Life of Luxury というタイトルがついており、ローマ風大邸宅、ワイン用のブドウを絞る木製スクリュー、風呂、水道、床下暖房、そして料理が主な話題となっている。毎回の番組中に、古代ローマの文化を再現するコーナーがあるのだが、初回はワイン用の木製ブドウ絞り機を実際に木を削って作ったり、当時の料理を再現したりしている。

ローマの風呂文化は有名だが、イギリスでもバースにローマの浴場跡があることはよく知られている。バース(Bath)という地名自体、そこにローマの浴場(bath)があったことに由来する地名である。ドイツやスイスにあるバーデン(Baden)も baths の意の語に由来し、バースと同様ローマの浴場があったことからこのような地名が付いている。ドイツ南部のバーデン・バーデン(Baden-Baden)も同様である(Baden-BadenはBaden in (the state of) Badenの略で、他のBaden と区別するために使われるようになったものらしい)。

ローマの浴場は社交場的な役割を果たし、風呂に入るだけでなく、人と会って話したり、ゲームなどの娯楽を楽しんだり、飲食をしたりと、いろいろなことが行われていた。この番組でも、風呂文化と関連して、そこでどのようなことが行われていたのかが紹介され、最後に当時の料理のことが紹介されている。

その中でも触れられているように、ローマの食文化と関連しては、アピキウスという人物が有名で、彼のものとされるレシピをまとめた料理本も伝わっている。セネカによると、彼は各地から珍しい高級食材を買い集め、しばしば知人などに贅沢な食事を振舞っていたが、やがてそれがたたって財産を大いに失い、そのため、やがて貧乏生活をしなければならなくなるのではないかという心配を苦に、最期は自殺したそうである。

アピキウスに代表されるように、ローマでは美食文化が花開き、手の込んだ料理が多く作られたようだが、この番組で再現されている料理にもみられるように、当時の料理は恐らく現代人の味覚にはあまり合わないものであったのだろう。しかしいずれにしろ、西ヨーロッパ各地の食文化の根底には恐らくローマの料理があるのだろう。

以下は、このシリーズ初回の動画。

http://www.youtube.com/watch?v=PNcGY8j4T3s&list=PL7C2D520D49EEA042









 
2012/03/28 (Wed)
~シュレスビッヒ観光のすすめ~
 
前回みたように、伝統的に、アングロ・サクソン人のうち、特にアングル人の原住地は、ドイツ北部のアンゲルン半島であり、その中でもシュレスビッヒやハイタブーの辺りが中心都市であったとされてきた。シュレスビッヒという地名は、聞いたことぐらいはある人も多くいると思うが、ガイドブックなどに大きく取り上げられることもないため、それ以上詳しいことはあまりよく知られていないと思われる。ハイタブーにいたっては、ほとんどの人にとっては初めて耳にする地名であろう。今回はこれらの土地について、特にアングロ・サクソン人やヴァイキングとの関連で紹介したい。

アンゲルンには、かつてアングル人達が住んでいたが、5世紀中頃以降、彼らはこの地を離れ、ブリテン島に移り住んだ。その後、8世紀頃までに、この地はヴァイキングの住む土地となった。というわけで、この辺りの土地からは、アングル人やヴァイキングの残していったものが多く見つかっている。
 
これらのうち、アングル人が住んでいた時代のものと思われるものの多くは、シュレスビッヒの Gottorf Castle 内の博物館に収められている。中でも特に印象深いものに(ややグロテスクではあるが)、泥の中で保存された状態で発見された当時の人々の遺体(Moorleiche)がある(写真はその一例)。

Moorleiche.jpg
 
1世紀末のローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマーニア』(12章)には、「臆病もの、卑怯もの、あるいは恥ずべき罪(破廉恥罪)を犯したものは、頭から簀をかぶせて泥沼に埋め込む」(泉井久之助訳)とあるが、場合によっては、シュレスビッヒ周辺で多く発見されているこれらの遺体も、刑罰として泥沼に沈められた人々のものなのかもしれない。あるいは生贄として捧げられたのかもしれない。いずれにしろ、かなり保存状態がよく、「生き生き」しているとすら言えるような気がするものもある。
 
もう一つ同じ博物館で非常に印象深い展示品として、ヴァイキング時代以前のゲルマン人の作った船が挙げられる。オスロにあるヴァイキング船博物館に展示されている船(Oseberg ShipやGokstad Ship)は非常に有名であり見ごたえもあるが、シュレスビッヒの船もなかなかのものである。

56ab0e86.jpeg
 
この船は、発見された土地にちなみNydam Boatと呼ばれ、上記のヴァイキング船より500年ほど前の時代(310~20年頃)のもので、現存するゲルマン人の作った船としては最古の時代のものである。船の全長はヴァイキング船と大体同じぐらいの約23mであるが、幅は約3.5mで、幅5m強のヴァイキング船に比べてやや狭くなっている。この船が作られてからさらに百数十年の後、恐らくこれと似たような船でアングル人達はブリテン島を目指したのであろう。
 
シュレスビッヒの中心からタクシーで15分程度のところにハイタブーという土地がある。前回紹介したように、この地名は古ノルド語に由来し、したがって、ヴァイキングが住んでいた時代に遡るものである。ここにはヴァイキング博物館があり、ヴァイキングの住居や船の復元、ルーン碑文をはじめヴァイキングと関連する多くのものが展示されている(写真は、ヴァイキング時代の集落を復元したもの。ここには、当時のライフスタイルで住んでいる人がいる)。

d38d5159.jpeg
 



この他にも、ハイタブー周辺には、かなり立派なルーン碑文も複数残っている。あちこちばらばらにあるので、車がないとなかなか全て見て回ることは出来ないが、いずれも見ごたえのあるものなので、タクシーを拾って一つ一つ見に行く価値はある(写真はそのうちの一つ、10世紀のErik-Stein)。
Erik-Stein.jpg
 
このように、シュレスビッヒやハイタブーには、ゲルマン人の文化や歴史と関連したものが相当充実した形で残されているので、ドイツ北部を旅行する機会があれば、シュレスビッヒに1泊(出来れば2泊)して、これらを見学しつつ、古代~中世のゲルマン人に思いを馳せてみるのもいいだろう。
 
2012/03/27 (Tue)
Schleswig.jpg
 


現代のイギリスやアメリカの基礎を築いたのはアングロ・サクソン人であるとされる。アメリカの「アングロ・サクソン人」が、17世紀以降イギリスから渡った人々であるということは言うまでもない。それでは、イギリスの「アングロ・サクソン人」はどこから来たのであろうか? 今回のテーマは、アングロ・サクソン人の原住地について。
 
アングロ・サクソン人というのは、5世紀中頃以降ブリテン島に侵入し、イングランドの基礎を築いたゲルマン系のアングル人、サクソン人、ジュート人などのことを言う。アングロ・サクソンという言葉それ自体は、本来は「イングランドのサクソン人」の意だが、これが上記の時代にイングランドに渡ったゲルマン系の人々一般を表す言葉になったのである(詳しくは、拙著『多民族の国イギリス』、pp. 35-47を参照)。
 
アングロ・サクソン人は、大まかに言えばユトランド半島やドイツ北部付近からブリテン島に渡って来た。したがって、これがアングロ・サクソン人の原住地と言えるが、特にアングル人については、伝統的に、もっとずっと限定的な原住地が知られている。
 
ユトランド半島の根元近く、デンマーク最南部より少し南、ドイツ最北部にアンゲルン(Angeln)という半島がある。ここがアングル人の原住地として知られており、Angelnという地名にその痕跡が残っていると考えられている。イングランドはもともと「アングル人の土地」という意味であるから、AngelnとEnglandとは、その前半要素が同語源だということになる。事実、アンゲルンもイングランドも、これに対応するラテン語名はAngliaで同じである。
 
アングル人の原住地としてのアンゲルンは、731年頃にビード(Bede, c. 673-735)によって書かれた『英国民教会史』の中に、以下のように言及されている。
 
「アングル人からは、つまり、ジュート人とサクソン人の住む地域の間に位置し、今日まで住む人がいないと言われているアングルスとして知られる国からは、東および中央アングリアの人々、マーシアの人々、ノーサンブリアの全ての人々、つまり、ハンバー川より北に住む人々、それにその他のイングランド人が派生した。」(『英国民教会史』1巻15章)
 
アルフレッド大王(Alfred the Great, 在位 871-899)の命令の下、9世紀末に編纂された『アングロ・サクソン年代記』の449年の欄には、アングロ・サクソン人のブリテン島侵入のことが記録されているが、そこでもこれと大体同趣旨のことが述べられている。
 
一方、10世紀末に『アングロ・サクソン年代記』のラテン語訳を中心として書かれたエゼルウェアルド(Æthelweard, d. c. 998) による『年代記』には、さらに詳しく以下のように述べられている(なお、ここに言及したアングロ・サクソン時代の文献やその著者については、拙著『アングロ・サクソン文学史:散文編』、pp. 51-67, 77, 121-47を参照)。
 
「アングル人の原住地はサクソン人とジュート人(の住む土地)の間に位置し、サクソン語ではスレスウィック、デーン人にはハイタビーとして知られる町を首都としている」(エゼルウェアルド『年代記』1巻4章)
 
ここで言及される「スレスウィック」というのは、アンゲルン半島の南端に位置する現在のシュレスビッヒ(Schleswig)のことである。また、「ハイタビー」という地名も、ハイタブー(Haithabu)あるいはヘーズビー(Hedeby) として現在まで残っている。
 
エゼルウェアルドが書き残したことは、後の時代の有力な英国史家達にも引用されている。例えば、16世紀末から17世紀初めにかけて活躍し、後の時代に書かれた英国史にも大きな影響を及ぼしたウィリアム・カムデン(William Camden, 1551-1623)の Britannia にも、アングル人の現住地について以下のように述べられている(以下は、1610年英訳版からの引用)

Now seeing that between Iuitland and Holsatia the ancient countrey of the Saxons, there is a little Province in the Kingdome of Dania, named at this day Angel, beneath the citie Flemsburg, which Lindebergius in his Epistles calleth Little Anglia: I dare affirme, that now at length, I have found the place of our Ancestors habitation, and that from thence the Angles came into this Iland. And to averre this the more confidently, I have good warrant from teh authoritie of that ancient writer Ethelwardus, whose words be these: Old Anglia is sited between the Saxons & the Giots: they have a capitall towne, which (in the Saxon tongue) is named Sleswic: but the Danes call it Haithby. (pp. 130-31)

 
(なお、この引用文の中でアンゲルンを指すものとして言及される Little Anglia という名称は、2つの Anglia を「大」「小」で区別するもので、Great Britain と Little Britain の場合と同じ感覚に基づくものである。)
 
ジョン・スピード(John Speed, 1542-1629)の The Historie of Great Britaine にも、エゼルウェアルドに基づく、以下のような記述がある(以下は1632年の第3版からの引用)。
 
The Angles (by Fabius Qaestor Ethelwardus, an ancient Writer, and a Noble Person of the Saoxns Royall Bloud; are brought from Old Anglia, a Portion lying betwixt the Countries of the Saxons & the Giots, as he writeth them, whose chiefe Towne was by them called Sleswick, and of the Danes, Haithby: but (more particularly) it lay betwixt the city Flemsburge and the Riuer Sly, which Country by Albertus Cranzius is called Anglia. (p. 199)
 
このように、アングル人の現住地は、伝統的に、ドイツ最北部のアンゲルン半島とされ、中でも特に、シュレスビッヒや、そこからタクシーで15分程度のところにあるハイタブーはその中心都市であったとされてきた。
 
実際にこれらの地に行ってみると、アングロ・サクソンやヴァイキングなど、ゲルマン系民族の歴史や文化に興味のある人には、非常に興味深いものが多く保存されているのであるが、大分長くなったので、そういう話はまた次回に。

写真はシュレスビッヒの遠景。
 
 
 
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